園崎さんの暮らし

フツーの人のなんてことない日常です。

起きてからほんの数時間の出来事

布団の温もりがいつまで経っても私を手離そうとせず、彼の罠から抜け出したのは陽がてっぺんを過ぎようとした頃でした。
次に私を魅惑したのは炬燵でした。彼に完全に甘え、ミルクと砂糖たっぷりの珈琲と、テレビアニメで見たことがあるフォルムのパンを開ききっていない目で確認し貪りました。パンの中身は案の定カスタードクリームでした。彼は男なのか女なのか、男か女かといえば「宝石の国」の最新話あとで見なきゃな、アンタークが一番好きだな、などそんなどうでもいいことを考えながら、クリームの中のバニラビーンズの数を薄目で数えて、朝食か昼食か区別の難しい食事を終えました。
空腹が満たされた私は炬燵の罠からもなんとか抜け出し、冷え切った廊下を泥棒のようにつま先でひょいひょい歩き、自室で適当に衣類をピックアップして脱衣所に向かいます。目を完全に開けるには、シャワーを浴びる、これしかないと思ったからです。
言っても寒さは強敵なので、まずはコックを捻り、シャワーヘッドから熱いお湯を出し浴室のドアを閉めて暖かい蒸気でいっぱいにします。蒸気を満たしている間に、パジャマや下着を脱ぎ捨て、満を持して浴室に飛び込むのです。

暖かなお湯を頭から浴び、温もりが隅まで行き渡ったところでシャンプーを手に取り、お湯で寝癖がペタンコになった髪を泡だてます。お察しの通り、ここまではほぼ半目。毎日毎日何千回も繰り返しているパターンのため、大抵のことは感覚で行えます。
やっと目が慣れてきた頃でした。視界の片隅に黒く動くものを感じたのです。暖かなお湯で温められた私の体が一気に冷えたように全身を鳥肌が襲いました。
恐る恐る慣れた目を凝らすと、浴室の窓に張り付く黒い...何か?何?なになに?ヤモリ?いや...体長5cm程の体に羽...腹部がジェリービーンズのように最も膨らんでいて、それが蜂だと認識するのに然程時間はかかりませんでした。虫か、しかも飛ぶやつ。そして刺すやつ。終わった。マジで。
密室の浴室に蜂と2人。厳密には1人と1匹ではありますが、蜂を相手に自分がどのようなアクションをとれば良いのか、必死に考えました。
まずは、相手を威嚇しないようにシャンプー流しました。奴は右往左往しながらも、こちらの出方を伺っているようでした。互いに静観し合い、相手がこの蒸気により多少弱まっていると察した私は、奴を殺すか生かすかの選択で生かす方を選ぶことにしました。
いくら弱っているといっても相手は蜂です。威嚇をすればいつ全力で襲ってくるか分かりません。更にここは浴室、全裸の私にはあまりにも隙があり過ぎる。武器であるシャワーヘッドから流れ出すお湯がどこまで効力があるかも知らない。ここは穏便にことを済ませるのが正しいと思い、奴を浴室から逃す方法を検討することにしました。
逃す方法はあまりにも安易でした。浴室の窓を開ければ良いのです。開けて奴を大空へ開放すれば良いのです。窓までの距離は浴槽を挟んだ距離、壁に手をつき体を伸ばせば窓のサッシに手が届きます。しかし、それは奴のテリトリーを侵す可能性があるということ。奴が私の行為を威嚇攻撃判断すれば、躊躇なく襲ってくるであろう。そして窓を開けることで、私は全裸を外へ晒すことになってしまう。外に人がいる可能性はほぼゼロに等しいが...少しばかりの恥辱の想いが行動をはばかりました。
ここまでを、決して奴を威嚇しないよう慎重に慎重を重ねトリートメントをし、体を洗いながら考えました。なかなかに混乱していて一旦浴室を出るという選択に至らなかったのです。
いかにして窓を開けるか、それが目下の課題でした。この時にはもう外に裸を晒すことになんの抵抗も持っていませんでした。それよりも裸の状態で奴に刺され、万が一にもアナフィラキシーショックなどを起こし全裸の状態で救急隊に運ばれる方が精神的に辛いと判断したからでした。
窓まで届く長い棒で窓を開けれないかと思い立った私は、洗い終わらない泡だらけの体で、脱衣所に飛び出すと、洗濯機に立てかけられた長い棒を手に取りました。浴室の天井を掃除するためのそれは、先端に白いフサフサがついていて、大きくした耳かきのようです。彼の柄の先を恐る恐る、奴の動向に注意しながらいつでも逃げれる体勢を整えつつサッシの凹凸になんとか引っ掛け、思い切って窓を横に引きました。
...開きませんでした。柄と窓ガラスが当たり、鈍い音を出しただけでした。その後も幾度か試みましたが、全て失敗に終わりました。柄の先が太く、うまくサッシの凹凸に引っ掛からなかったのが原因でしたし、普段から浴室の窓は内側にはめられている方を開け閉めするため、奴がいる外側の窓は基本動かされることが無く開きにくい状態になってしまっていたのでした。お手上げです。
一通りシャワー浴びるという目的は果たせたので、退散することにしました。一度冷静になって奴との戦い方を考えることにしました。


浴室のドアをきっちり締め、奴が脱衣所入ってこれないことを確認しました。すると一時的に緊張から解き放たれた私の耳に信じられない音が入ってきました。雨音です。それも相当の。
小一時間前の出来事を思い出します。炬燵で食事をしている時、部屋には陽の光が射していて、部屋干しされている様子は一切ありませんでした。
間違いなく今、ベランダで洗濯物たちは雨に濡れている...ベランダに出るということは、雨に濡れるということ。たった今シャワーを浴びたばかりなのに...少しばかりのため息を吐きながら、どうせ濡れるなら。と先ほど脱ぎ散らかしたパジャマを再び着直し、ベランダへ彼らの救出に向かいました。
ベランダでは風雨に打たれた彼らが虚しくなびいていました。中には私の制服も...明日着ないといけないのに。ベランダへ出るために外履きのビーチサンダルに履き替えようとすると、まさかのビーチサンダルの鼻緒が切れてる...困った、歩けない...しかしうだうだしている暇はありません。そのまま素足で彼らの救出を試みました。足が冷たい、風で雨が痛い。でも少しの我慢です。幸い、ビショビショに濡れている物はおらず、風雨の中彼らを抱きとめ、部屋の入り口の桟に丁寧に一定の間隔を空けながら避難させるとパジャマを着替えに脱衣所に戻りました。
裸足でベランダへ飛び出したこともあり、足が気持ち悪かったので洗おうと浴室のドアを開けました。
浴室のタイルの中央に奴が鎮座していました。ああ、そうでした。奴との戦いの途中で万策尽きて逃げて来たのでした。もう助けるなんて無理。絶対に無理。取り敢えず、見なかったことにしよう。私はそっと浴室のドアを閉じました。

 

今日は恐くてお風呂に入れない。